Slava Ukraine! ウクライナに栄光あれ!

日々爆撃に晒され、命を落としている人々、かけがえのない家族をなくした人々、戦いのために引き離される家族、平穏な日々、仕事、家財も何もかも失い、生きるか死ぬかの中で、食料も乏しく、寒さもしのげず、緊張と不安、怒りと悲しみの中で1刻1刻を刻む、ウクライナの人たちのことを思うと心が引き裂かれそうで、無事と一刻も早い平和の時を願わない時はない。

 

又、何も知らずに、もしくは全く違う話を聞かされて、兄弟のように思う国を攻撃するために、もしくは犬死するために家から遠く離れウクライナに送りこまれたロシア兵たちやその家族のことを思わずにはいられない。彼らがウクライナの人々の血を一滴も流すことがなく引き下がり、又、同時に彼ら自身の命も守られ、その命が平和のために向けられるよう祈っている。

 

こんな戦い、ウクライナの人たちはもちろん、権力者たちのゲームの駒として送られるロシアの人々も誰も望んではいないのは明らかだ。

プーチンはじめロシアの権力者たちは安全な場所から、自分の国民をゲームの駒のように動かし、兄弟国と呼んだ国の人々を平気で殺戮し、あらゆる場所を破壊している。

 

信じられない思いで、悪化する状況をここで傍観し、怒りと悲しみを感じながら、祈るばかりの自分にも苛立ちを感じる。

 

2月末の渋谷の反戦デモに家族で行った。

プラカードを作り、日本在住のリトアニア人コミュニティーの人たちと街角に立った。

 

大国ロシアの圧政に苦しめられてきた歴史を歩むリトアニアの人たちも立場や気持ちは同じだからだ。

(ただロシアと言う際に、気をつけなくてはならないのは、ロシアの人たちの中にも様々な立場や状況の人たちがいて、一般のロシアの人たちを一括りにして捉えるのは、とても危険なことでもある)

 

日本の中で、『まずは人命を守るために、一度条件を呑んだらいいのでは』という論調がある。

リトアニアに関わっていなかった頃の私、あの地域の歴史的悲劇をよく知らない頃の私であれば『そうだよね、命あってこそだものね』と一理あると考えていたかもしれないし、気持ちはわかる。

 

でも今は、『絶対に降伏できない、したくない』というウクライナの立場が身に染みてわかる。

 

自分のちっぽけさ、無力さを感じながら、リトアニアで暮らしたことがあり、関わっている私だからこそ感じ、理解したことを伝えることで、何かの助けになることができるかもしれないという一縷の希望を抱きながらこの文章を書いている。

 

『まずは人命を守ろう』というのは、大震災など天災の時はあてはまる。

物理的に破壊されたもの、失ったものはいつか時間をかけて取り戻せるからだ。

命がなくては、それができない。まずは命を守って、状況が落ち着いたら少しづつ立て直して行こうという考え、それは全うだと思う。

 

でも、この戦争という人災においては、全く違う。

ロシア相手に条件を飲む、降伏するというのは、今後、プーチンのロシア帝国で属国として自由を奪われた中で暮らすことを、この先、何世代にもわたって許すのと同じということだ。

物理的に命が助かっても、その先、生きながら死んだように生きるのと同じことなのだ。

それを理解しているからこそ、ウクライナの人々は命をかけても、絶対に譲れないのだ。

 

ソ連時代、権力に逆らう人々、従わない人々が味わった拷問や苦難は筆舌に尽し難く、その中で『物理的に生きながら心は死んだように生きる経験』を嫌というほど味わった旧ソ連国の人々にはそのことが痛いほどわかる。

 

私は2005年から2年ほどリトアニアに滞在した。その後夫の仕事で2012年から2017年まで5年ほど暮らした。

2005年の留学時、リトアニア語と共にバルト3国研究コースというコースに通っていた。

そこでは、リトアニアを中心としたバルト3国の政治や経済、歴史、文化などを広く浅く学ぶ。

 

歴史というのは常に、誰が、どのような立場で語るのか、というバイアスがかかり、

それによりストーリーが大きく変わる。私はバルト3国から見た愛国的な歴史観から学んでいるので、当然リトアニアの人々の立場から見た歴史を知ることとなった。

 

リトアニアと言っても、あの地域の歴史はとても複雑で入り組んでおり、現在私たちが『リトアニア』として認識している国としての国境や国としてのアイデンティティは20世紀に入って確立されたものだ。

東ヨーロッパ地域の歴史はものすごく入り組んでいるので、ここではだいぶ簡略化してしまうが、

ロシア帝国時代の18世期末、現在のリトアニア地域はほぼ全て、ロシア帝国下に編入された。けれども1860年代にはロシア帝国内での圧政に対し、自治・独立運動が高揚する。それを受けて農奴解放令が出されるが、ロシア政府はロシア化政策を強め、ロシア正教にとっては異端なカソリック(リトアニア人やポーランド人の宗教)を禁止し、リトアニア語、ポーランド語を含む、他言語に対する言語統制も行い、彼らの領土を没収しロシア人に譲渡を行い、それぞれの領土の土着の貴族の権力を奪ってゆく。反逆に関わった人々に対しての絞首刑や流刑、財産没収も容赦がない。

それに対して、領土の貴族(ポーランド系貴族(リトアニア語も話す))をはじめ、リトアニア語話者の農民たちや宗教関係者などの民衆はカソリック擁護という目的を掲げ、地下で抵抗運動を行い、活動を秘密裏に組織化させてゆく。その中でリトアニア語での地下出版や地下学校も創設され、秘密裏に『リトアニア語話者』という言語をベースとした『リトアニア』という民族アイデンティティの礎が作られてゆく。それが20世紀のリトアニアの民族独立運動につながり、リトアニアという国家として樹立したという背景がある。

 

ロシアの周りの国々にとって、ロシアという存在は、歴史の中で常に帝国主義であり、周囲に圧力をかけることで支配をしてきた国だった。

 

リトアニアの歴史の先生方は言っていた。

歴史は繰り返す、と。

ロシアの帝国主義的な社会構造は、何世紀の時を経ても変わらない、と。

 

一部の権力者が圧倒的な権力を握り、その他大勢は、権力に従う奴隷。

歴史の中で、人権だとか、民主主義だとか、自由だとか、そういった概念は存在してこなかったし、これからもしないであろう。帝国主義の中では、ツァーが絶対的権力者で、それ以外は虫けら同然なのだ。

そういう隣人であり、いわゆる民主主義を掲げる国々と同じ土壌の人々ではないのだ、と。

 

そういう話をする中で、授業中、ロシア帝国の中で、貴族たちがするある『遊び』について

書かれた古い書物のコピーが配られたことがある。

挿絵もあり、あまりにも残酷で、吐き気がするほどだったので、覚えている。

 

ロシア貴族の遊びの中で、農奴の子どもたちを的にした狩りがあったという。

子どもたちを領地に放ち、木の上に登らせたり、必死に逃げるところを銃で撃ち殺し、その数を競うというものだ。

身分の低い人間は、動物やモノと同等な存在として扱われてきたということだった。

 

その授業内ではロシアの権力者たちのメンタリティーについて説明するべく、このような資料が説明されていた。

そしてそれはロシア帝国の時代でも、それ以前の時代でも、それ以後のソ連時代でも、そしてソ連が崩壊したあとのロシア連邦でも根本として変わらないであろうということだった。

帝国主義的思考とその政権が続く限り。

 

今回の侵略戦争で、嘘を伝えられた未熟なロシア兵が捨て駒のようにどんどん戦場に送り込まれていること、オリンピックでフィギュアスケートはじめ選手たちは国の栄誉としてのメダルを獲るためだけに体や心を壊す過酷な訓練を受けその後は使い捨てになっていること、権力に反して声をあげる者には子どもにさえ容赦なく厳しく罰を加えること、そういうことを見るにつけ、形を変えて、現代においてもロシアの権力者は自分の国民でさえ、同じ大切な人間として捉えていないことがよくわかる。それに一部の政権権力者やオリガルヒたちが莫大な富を得ている一方、貧しい国民が大半という社会構造は、歴史を通して変わってはいない。

 

ロシアの権力者は、歴史的に、人権だとか、共存共栄とかそんな概念のない、国民は自分の駒で、自分が周囲の絶体的支配者であるかどうか、というメンタリティーの世界に住んでいる。

そんな人たちに、こちらの価値観をベースにして、『同じ土壌で話し合おう、理解しあおう』というのははっきり言って無理があるし『ちゃんと話し合えばわかるはず』と思ってしまうのはお人好しすぎる。大切にしているもののベースが根本的に違うのだから。

ロシアの歴史的背景など、相手をよく理解せず、自分と同じ価値観や概念をベースにして対話をはじめても、コミュニケーションギャップどころか、コミュニケーション自体が成り立たない。

自分も含めてだが、もっとロシアの本質をよく理解する必要があると思う。

 

話は留学時代に戻る。

 

私が2005年にリトアニアで歴史の授業を受けていた頃の先生方は主に当時40歳前後の方々が多く、1965年ごろに旧ソ連のリトアニアに生まれた世代だ。

スターリン後の世代で、『雪解け』と呼ばれ圧政が少し和らいだ時代に生まれている。

その時代もかなり酷かったが、先生方の両親は、スターリンの圧政が一番酷く、拷問やシベリア収容所送りにされた人々が溢れた時代に生まれ、生きた人たちだ。

 

ある晩、突然ソ連兵たちが家を襲い銃をつきつける。家を焼かれ、まったく理不尽な罪状で、着の身着のままで、家族がバラバラに引き裂かれ、極寒のシベリアヘ送られる。飢えや寒さ、拷問、銃殺で命を落とす。国内の収容所であっても、ひどい拷問で命を落とす、そんなことが周囲で日常的に起きていたのだ。

 

日常生活でも酒場でちょっと酔っ払い、政府に対する愚痴を一言でも漏らしたら、近くにいたKGBに射殺されるとか、自由に歌を歌ったら投獄とか、私たちには考えも及ばないだろう。

誰がソ連の裏切り者か、密告しなければ、自分や家族がシベリアに送られるので、誰かを密告しなくてはならない、など社会内部で互いに不信感を呼び起こし、分裂させるようなことも日常茶飯事として起きていた。

 

バルト国は、特にリトアニア人の割合が多いリトアニアは、旧ソ連の中でも抵抗運動が激しく、森に囲まれた地の利を生かしてパルチザンたちが最後の最後までゲリラ交戦を行っていた地でもある。10代の若者はじめ、時には女性も混じり森の中の塹壕に隠れ、徹底抗戦をしていたのだ。

 

リトアニア、バルト3国の人々は、自分たちはソ連とは異なる独自のアイデンティティや文化、言語を持ち、独立した自由な人々であることを証明するために、非常に多くの血や涙を流し、50年もの歳月をかけて、その立場を勝ち得た。

 

そして、今リトアニア人として生きる人たちは、その50年の間に失われたものがいかに莫大であったかということを認識しながら、現在の独立と自由を享受するために犠牲になり、亡くなった人々、困難の中でも独自の文化を守り継承させるために尽力した人々に対し、常に敬意を抱き、この独立と自由を後世のためにも守り抜くことを心の中で誓っている。

 

私が留学生としてリトアニアを初めて訪れたのは、リトアニアがEUに加盟した直後の時代だった。独立回復を果たしてから15年ほどの頃だ。

もう平和、と呼ばれるような時代であってさえも、一人の外国人として、この国に残された

傷跡の深さを感じずにはいられなかった。

 

時が流れ、世代も変わり、今はだいぶ違った様相であるが、あの当時は、リトアニア人同士でも、互いを信じない、という不信感が強くベースにあったように思う。

家族や身近な親族、付き合いの深い友人以外、基本的に人を信じてはいけない、という考え方が多くの人に残っていたように思う。

変な話だけれど、『あなたは外国人だから、信じられるけれど…』という切り出し方をされたことも1回、2回ではない。

それは、ソ連が意図的に、先ほど述べたように、違いに裏切りのような行為をさせたことなどが

ベースとなっているのだろうと推測する。

親戚や近所、友人などの間で密告しあわなければサバイバルできなかった、という時代がそんなに遠い昔のことではない、と言うことを考えれば、そういった不信感が世代を超えて色濃く残るということも当然といえば当然だ。

それに加えて、ソ連の社会システム自体がものすごく奇妙で人間の良心を失うようなものだったために、その中で何十年も生きるということ自体が集団的、社会的トラウマの原因であったと思う。

あのシステムのもとで、生活をするのはものすごくストレスフルであり、人間不信にさえ陥るということも、EU加盟後に外国人としてちょっとソ連的システムに触れただけの、私でさえ深く感じたのだ。

当時2005年、EUに加盟した後とはいえ、社会内部では、まだまだ旧ソ連的な行政システムや、仕事に対する倫理観が根強く残っていた。日本では当然のようにスムーズにおこなわれる行政サービスも、当時はそうではなかった。例えば留学のための滞在許可書の発給ひとつをとっても、担当する人によって手続きがバラバラの認識で、だれも責任を持って仕事を完了しようという気持ちがなく、特に背後に誰もいないEU外から来た1留学生は、コケにされ、あちこちをたらい回しにされた。

EU以外からの留学生があまり想定されていなかったので、その人たちに対応する行政マニュアルが整備されていなかったこともあるが、誰もそのことを気にとめることはなく、私に滞在許可がおりずに国外追放されようがされまいが、どうでもよかったのだ。面倒臭い仕事が一つ増えたので、理由をつけて誰かに押し付けたいようだった。

(ちなみに私の前に、日本からの交換留学生で、似たような理由で滞在許可書がもらえず、3ヶ月で追放になった人もいたとか。交換留学生なのにもかかわらず!)

何度も怒りとストレスにまみれながら、移民局のドアをたたき、悔し涙を流したものだ。

又、用途が明確ではない書類のために、行政書士のところを訪問し、半ば無理やり高額な金額を払わされることもあった。

そうした経験を通し、旧ソ連の社会システムの中で人々の倫理観、責任感、そして人や社会に対する信頼、そういった人の良心的なものが否応なく損なわれていき、社会内での分断が生じていく過程を僅かながらも感じることができた。物事がスムースに進むことはまずなく、様々なトラブルや予想外のことがたくさん待ち受けていて、物事に一貫性がなく、どこにも誰にも、責任の所在がない。出口のない迷路に放り込まれた人がどこまでストレスに耐えられるのか、まるでテストでもされているのかと思ってしまうような仕組みなのだ。

 

念のため、リトアニアの人を責めているのではない。

誰だって、あんな社会システムの中にいたら、時が経つにつれ、徐々にそうなってしまうだろう。

そうしないと生きていけないから。

むしろ、旧ソ連のような社会システムの中でも、それに対抗し、人間性や良心を失わないよう最大限の努力をし続けた人々も多くいるので、並大抵ならぬ信念に敬意を示したい。

 

ソ連の嘘にまみれの腐りきったシステムの中で自由は制限され、体制に理不尽に痛めつけられながら少しづつじわじわと人間性が蝕まれる。人間としての美しい性質が次々に削がれてゆき、憂鬱と絶望だけが残され、やがて人は抜け殻のように生きることになる。

ソ連の社会が個人の心理レベルにまで及ぼしてきた影響は、あの時代をベースとした小説、文学、ドキュメンタリーなどを手に取ってもらうとよくわかると思う。

もちろん希望を抱き、体制に反発しながら、人間性を保ち続けた人々も大勢いるわけであり、それが独立への原動力になったわけではあるが、多かれ少なかれ、あの時代に生きた人々は、無力感や閉塞感を味わっていたと言えるだろう。

ある意味、命があっても、ずっと別の意味で殺されてきたのだ。

 

現在のロシア連邦は、ソ連のような手酷い圧政をせず、仕組みも変わっていることだろうと思う人もいるかもしれないが、周辺の国々や民族は歴史的にこの帝国主義の権力者たちの根本が変わらないことを身をもって検証してきた。

 

だから、リトアニアの人たちは、ロシアの権力に屈せずに戦うというウクライナの人たちのことがよくわかり、自分のこととして捉え、強く支持し、あらゆる支援を行っている。

そして、ロシアのウクライナに対する暴挙は、人ごとではなく、バルト3国にも向けられるだろうと現実的に捉えている。

 

遠く離れ、歴史で重なる部分が少ない日本にいると、なかなか理解しにくい側面もあるが、今回のウクライナでの戦闘は単に領土や人命というフィジカルな問題ではなく、自分の子どもたちや孫、その先の世代までもが人として自由に生きる権利を守れるかどうか、をかけた戦いだということだ。自分たちの今の命ももちろんとても大切だが、将来にわたる子ども達の未来を守りたい、社会を守りたい、という気持ちだ。 

『権利』や『自由』をめぐって命をかけて戦って勝ち取るという歴史的経験のない日本に暮らしていながら、『人権』や『民主主義』とはかなりかけ離れた危険な隣国がいつも背後に迫っている事実を思うと決して人ごとでなく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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